日本に朝廷が2つあった時代



こんにちは!今回は南北朝時代!この時代はなんと日本に天皇が2人いました!wつまり朝廷が2つ存在しました!
それはなぜなのか!?
理由は建武の新政でくせ者後醍醐天皇が政治の実権を握っていたけど!なかなか上手くいかないから!!武士の政治を辞めて!天皇中心の政治を始めたのだが、貴族優遇の改革!
あまり上手くいかなかった
新政権はボロボロ!武士不満爆発!
たった3年間で建武の新政は崩壊した!!www
そして武士の状況はと言うと、武士の地位はめちゃくちゃ下がっていった!まあ当たり前だけどねw
武士はその昔不遇の時代が長く続いていただけど鎌倉幕府が出来て武士の時代がきた!しかし今回の後醍醐天皇の建武の新政せいでまた武士がザコになるかも知れない!武士はヤバい状況だ!
武士のピンチ!後醍醐天皇の部下の足利尊氏が後醍醐天皇を裏切り!武士のリーダーになった!

2つの朝廷
北朝と南朝のバトル!!
後醍醐天皇は奈良の吉野に南朝を作りました!!そして足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立(ようりつ)!室町幕府を樹立!&なんと日本に天皇が2人になった!
ちなみに南北朝時代の時期は室町時代前半です!1336年から1392年の56年間を南北朝時代と言います!
お互いの血筋が正当な天皇家だという事でもめますwちなみに交互に天皇を出していこうぜ!!(両統迭立)って感じでやってました
- 足利尊氏側の朝廷=北朝(持明院統)
- 後醍醐天皇側の朝廷=南朝(後醍醐天皇)
それをぶち壊して鎌倉幕府を滅ぼして交代制を壊したのが後醍醐天皇です!!ちなみにこの一連の戦争を元弘の乱といいます
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するまでの50年以上に渡り続いた、この間に天皇親政の方針に反対した足利尊氏など多くの武士が後醍醐天皇を離反した!南北朝が再び合一するのは1392年である
ちなみにこの南北朝時代は日本史的にタブーとされた時代でもあります、理由は明治の大日本帝国憲法の元では万世一系の、天皇の統治!つまり天皇の皇統が2つな許されないのである!
両統迭立とは?
交互に天皇を出すこと!!
鎌倉時代後期からの天皇家の分断!両統迭立(りょうとうてつりつ)について!両統迭立とは
「一国の世襲君主の家計が2つに別れてそれぞれの家計から交互に君主を即位させる状態」の事
そして、今回のテーマの南北朝時代!つまり北朝と南北が別れて争う時代になった事!
北朝の足利尊氏!VS南朝の後醍醐天皇!
両統迭立のそもそもの理由は後嵯峨天皇が次の天皇家の家督(治天の君)をハッキリしなかった事!そして治天の君(天皇家の家督)の座を巡り揉めた!これが理由ね!だから本来後醍醐天皇がビシッと次はお前が天皇!!と決めてしまえば問題は無かったって訳です!
だけど後嵯峨天皇は、実は後継をハッキリしなかったのは、承久の乱(天皇対幕府)で天皇の力がダウンしていたのが関係していた!とも言われてる!少し悲しいけどーせ後嵯峨天皇意見通らない!なら鎌倉幕府頼むわ!的なね!名ばかり管理職の俺並に立場が弱い!って訳だったのかもしれないw

ダグダの皇位継承
昔から天皇家が2つに別れてよく揉めていました!
では今回はなぜ?
南北に分裂したのか?
それは天皇家より幕府が力をつけたから!!
- 承久の乱の後は天皇家は権利を失った
- 逆に鎌倉幕府は権力も財力を持った!
という事で幕府と朝廷の力関係が変わってしまったwwwだから2つの天皇家は鎌倉幕府に接近!しかし無茶苦茶な朝廷に鎌倉幕府は嫌気がさしてきた
- 「皇位継承なんてしるかい!勝手にやってくり」
- 「そんな争うなら互い交代で天皇だせよ!」
という、ナイスアドバイスを朝廷に出したのである!
という事だからグダグダのまま2つの天皇家が存在して南北朝時代までいたるのであった
南北朝合一!!足利義満登場!!
最後は天才足利義満が解決!!
といういままで沢山南北朝で揉めました!!後醍醐天皇が幽閉されたり!和睦しよう的な雰囲気の時には北朝と南北のトップが同時に亡くなったりwww
色々あったけど最後は天才の登場で解決します!
そう!おなじみ金閣寺を立てた男!
第3代室町幕府将軍足利義満!!
この人は明との貿易したり!この室町時代にめちゃくちゃ色々活躍しました!
- 朝廷の権力を幕府に移す
- 有力守護大名の力を抑える
室町時代の政治!文化!経済の最盛期を築いた男
少しずつお金を幕府に集めて!政治の場所!あの花の御所を作り!南朝の弱体化!北朝を強化して!1392年に南北朝が合一した!
これを明徳の和睦というよ!!そして太政大臣になった!
ちなみに日本で初めてお酒に課税した人だからね!金閣寺たてて日本の華やかな文化を築いたり!アートが好きな俺は割と義満好きですw
※明徳の和睦=南朝との約束
まあ、そんな感じで今回は終わりやで!!!